新田佑梨×関田育子「波旬」

急な坂ショーケースVol.3

新田佑梨×関田育子「波旬」@急な坂スタジオ

水難事故で家族を失った少女が、親戚か何かのおばさんの家にいて自分の部屋に引き籠っている。少女の癒えない心の傷からくる葛藤や記憶を演劇として見せられる作品で、少女自身も溺れる様子、目の前で家族を失っていく様子の再現による悲壮感の演出にいち観客としても呼吸ができないくらい苦しくなってしまう。

演技自体はいつもの関田育子の「ふりをする」演技で表情ひとつ変えずに手を目元に持っていくだけの振りで泣いたり、独特のリズムを刻むようなステップでクロールのふり、平泳ぎのふりをして移動して回り海を表現するなど妙に現実感がないのに演技として成り立ってしまういつもの関田育子の手口だと感じた。

それでも感情が刺さった原因、(いい意味で)悪いなぁと思ったのは発表場所(舞台)の選択である。今回のショーケースでは各劇団が急な坂スタジオ内でいいと思った場所を選んで別々の場所を使っているのだが、クリエイションメンバーが選んだのは本人に「あの部屋は何だか嫌な感じがする、気持ち悪いと思っていた」と言わしめるほどの圧迫感のある狭い部屋で、演出される感情がズブズブと至近距離で突き刺さってくる。なんとなくで最前列での観劇を選んだがもうちょっと長い作品だったら感情の重さに耐えられなくて倒れていたかもしれない。役者はいつもの通り悲しいふり、苦しいふりをしているだけなのに、だ。

 最後に書いておかなければならないと思うのが関田育子の標榜する「広角レンズの演劇」としての本作品の評価である。広角レンズの演劇とは観客の目線を役者に集中させず、舞台装置と役者が等価に見えるくらいまで広げるというものだが、今回は音や光が本作品を広角レンズの演劇たらしめていると感じた。ドアを叩いているだけなのに音が気になってそちらに目が行ってしまって俳優から目が逸れてしまう、スタンドライトがあることで視野が広がる、そして観客に「暗闇を見せる」ことで視野のすべてを鑑賞の対象としてしまう技術。この暗闇を見せるというのは広角レンズの演劇の一つの極まりだと感じた。

DULL-COLORED POP『岸田國士戦争劇集』白組

DULL-COLORED POP『岸田國士戦争劇集』白組
@アトリエ春風舎
作:岸田國士
構成・演出:谷賢一

『動員挿話』『戦争指導者』『かへらじと』の三本立て

『動員挿話』戯曲初出:1927年
 将校の軍馬を世話するという名目で一人の馬丁が戦争に召集されようとしており、それを止めようとする妻と馬丁の掛け合い。妻は「この人と二度と離れたくない」夫である馬丁は「妻のことは心配だが世間体に負けて戦争に行くことに決めてしまう」。男性と女性のすれ違いがとても切ない戯曲。
 将校の妻と馬丁の妻の立場の差による行動原理の違いも面白いのだが、馬丁の妻を演じる女優さんの迫真の演技がそれをさらに引き立たせる。

『戦争指導者』戯曲初出:1943年
 ルーズベルトとトルーマンが演じる短いコント。
1分ほどの短い戯曲だが、ぱっと場が明るくなる。

『かへらじと』戯曲初出:1943年
 幼い頃に親友の眼を失明させてしまったいち兵隊、志木の戦死までの経緯を描く作品。『動員挿話』と相対して、とても静かにゆっくりと志木が戦地に赴くまでの苦悩や葛藤が、情感にあふれる演出をされているのが美しい。
親友が失明のために徴兵検査に落ちたことを自分の落ち度だと信じ、「2人分の働きをしなければならない」と将校の命令に背き戦地にて特攻を繰り返す志木の心情もとても苦しく響いてくる。

ー戦時には筆を折らなければ作家は戦争賛美のために動員されてしまうというツイートをどこかで読んだが、それでも岸田國士が戦時に残した戯曲のひとつひとつがとても美しいと思わされる公演であった。

スペースノットブランク『ささやかなさ』

2021年6月、三鷹のSCOOLでスペースノットブランク『ささやかなさ』を鑑賞した。

 戯曲は『山山』で知られる松原俊太郎氏の作で1人の女性に同時に恋をしてしまった2人の男性と、恋愛の対象である女性のことを描いた作品だった。

 入場時にもらえるパンフレットの俳優クレジットの前に(Vo)、(Key)、(Dr)などの表記が書かれている通り、舞台となるスペースにはマイクやドラム、ベース、電子ピアノなどのバンドセットが組まれている。

 マイクと電子ピアノ以外は私の記憶では配線はされていないのだが、マイクやドラムはセリフを強化するために、電子ピアノはBGMを奏でるために活用されていて俳優はセリフを発しているのに一瞬音楽ライブを観ているのではないかと錯覚する瞬間があった。

 そして個人的に気になったのが俳優がセリフを発するときにわずかにかかとを上げるなどわざと身体に負荷をかけるような動きをしていたことだ。

 暗転のときに聞こえてくる荒い呼吸、それが脳裏に焼き付いて忘れられない。

ことばの学校演習科修了課題

演劇批評を書きたいと思っているというのはTwitterでもずっと言っていることだが、今の私にはまだその力はないという判断から演劇レビュー3本を修了課題として提出することにした。提出した課題を以下に掲載する。


①スペースノットブランク『共有するビヘイビア』2019年1月@早稲田どらま館

その演劇はSNSでWANIMAの演劇と呼ばれた。

WANIMAとはご存じ?2010年に結成されて現在もフェスなどで活動中の3人組のロックバンドである。本作では中盤の<共有するコンシャスネス>からとにかくワニマという単語が繰り返されるようになり、最終章の<共有するカタルシス>にかけてWANIMA、ワニマの表記ブレを合わせると合計37回のWANIMAという単語が出てくる。

ワニマ

ワニマ

 頭がくらくらする。

 本作の上演されたどらま館ショーケース2019は短い「演劇作品」を上演するイベントなのだが、スペースノットブランクの『共有するビヘイビア』については「これは何だろう」と思いながら見ていた。舞台上に3人の役者がいて、3つの役があって、それぞれに割り当てられた役を演じるという点では確かに演劇であるし、セリフを発しながら舞うように動く様はさながらコンテンポラリーダンスのように見えるし、セリフの可笑しさは言葉遊びをしているようにも聞こえた。しかし、セリフはコンテンポラリーダンスの音楽にしてはあまりに対話的だと思った。

 <共有するコンセプト>の章では「そこから膝でスライディング もう一度スライディング 正座の姿勢になって起き上がる」というようなダンスの振り付けをしているようなセリフを発し実際に踊ってみせるが、<共有するコンシャスネス>では「チケット代は 2500円 で 1団体 4万円のチケットノルマ 7時 30分開演 7時だったかもしれない から 6 時 6時じゃないや 6時半か 7時に開場」というセリフに振りがつく。ほかの章でも大体そうである。なんだこれは、である。

 私にはダンスの素養がないので言葉と振りがきちんと連動していたのか読み解く術はなかったのだが、黒い衣装に紺のスニーカーで揃えた3人がセリフを発しながら会場を縦横無尽に動き回る様を夢中で見てしまった。


②うさぎストライプ『バージン・ブルース』2017年5月@こまばアゴラ劇場

 男手2人で娘を育ててきた男性2人とその娘彩子。彩子の結婚式の控え室での会話から話が始まるが、父親の一人博貴が倒れることにより物語は博貴の走馬灯に変わっていく。

 普通じゃない特徴を持つ3人の男がいる。なぜか女性並みのおっぱいのある男博貴、博貴の幼馴染で男性器が1年に10cm成長する男修二、そして一見普通に見える男有太郎。走馬灯は3人の学生生活を映し出す。そんな中ある日突然博貴は有太郎が妊娠していることを知る。子どもは「前」から産まれてくるらしい。命と引き換えに子どもを出産した有太郎はそのまま亡くなってしまい、残された博貴と修二は子どもを彩子と名付け、2人で育てることにする。(ちなみに走馬灯内で博貴は「ウィスタリア」、修二は「ヴァーミリオン」、有太郎は「ブラック」とお互いを呼び合う。)

 こんなの普通じゃない。「そんなのアリか!!」の連続に徐々に話に引き込まれていってしまう。何の悪ノリか、ついには制作・ドラマタークにクレジットされており先ほどまで客席で案内役をしていた金澤昭氏がアコースティックギターを持ち出し、いい感じの曲の弾き語りを始める。内輪ノリだがここで青年団系演劇の常連観客の大爆笑が沸き起こる。なんだこの空間は。

 しかし笑いだけでは終わらせないのが大池容子のすごいところで、走馬灯内では「いいんだ、化けモンは化けモンらしく人目につかないところで孤独に生きていかなきゃいけないんだよ」と言い合うような2人が娘を育てていざ結婚式、というところで「出来損ないのおれたちが、こんなに幸せでいいのかなぁ。」「なんか、バチ当たったりしないかなぁ…。」といった言葉を言うようになっているところにこの作品の魅力を感じた。それはまるで、普通じゃなくてもそのままでも幸せになれるし、普通じゃない人が普通の幸せを手に入れることもできるみたいな、ほのかな福音のように感じられた。


③東京タンバリン『ただいま おかえり』2017年6月〜7月@下北沢小劇場B1

 夫が亡くなってしまってから実家を離れ、アオサ、アカネ、キミの「3人」と別荘で暮らすようになったとある母親とその家族の話。東京に住む娘や息子たちは母に別荘を出て実家に戻ることを提案するが、母は受け入れようとせず、かたくなに、ご近所さんや「3人」と暮らす別荘での暮らしが快適であると主張する。

 実際、家の中はいつも会話で溢れていて楽しいし訪ねてくるご近所さんと踊ったりする場面もとても微笑ましい。しかし夫の一周忌の前に訪ねてくる息子や娘たちとの会話から推しはかられる母親が一人で別荘に暮らす理由は決して明るいものではない。息子たちが説得に来るたびに「あなたたちに負担をかけたくないの」などと感情的になりながら追い返してしまう。

 さらに後半に明らかになることなのだが、母親と別荘で楽しく会話をしていた「3人」が実は「話す家電」であることが露呈する。母親は夫を失ったショックから抜け出せておらず、他人との接触で傷つくことを恐れ別荘で「独居」していたのだ。

人間は完璧ではない。たとえ親子の間柄であってもときには傷つけるようなことを言ってしまうこともある。それを恐れて自分の殻に篭ってしまう母親の気持ちはよく分かる。人は瑕疵があるからぶつかってしまうけど、うまくいかないところが面白くもあるから難しいと思ってしまった。

 そしてあまり重要な部分ではないのかもしれないが、この作品について特筆せねばならないのが杉山至氏による木製の舞台装置である。これがとても面白く、一日弄り倒しても飽きなさそうなのだ。あるものは角度を変え窓になったりドアになったり。机の下から一回り小さな机と椅子のセットが出てきてリビングがカウンター式のシステムキッチンになったり。シンプルな舞台装置ながら場面をがらっと変えるのにとても役立っていて、シーンの生成にとても役立っていたように思う。