演劇批評を書きたいと思っているというのはTwitterでもずっと言っていることだが、今の私にはまだその力はないという判断から演劇レビュー3本を修了課題として提出することにした。提出した課題を以下に掲載する。
①スペースノットブランク『共有するビヘイビア』2019年1月@早稲田どらま館
その演劇はSNSでWANIMAの演劇と呼ばれた。
WANIMAとはご存じ?2010年に結成されて現在もフェスなどで活動中の3人組のロックバンドである。本作では中盤の<共有するコンシャスネス>からとにかくワニマという単語が繰り返されるようになり、最終章の<共有するカタルシス>にかけてWANIMA、ワニマの表記ブレを合わせると合計37回のWANIMAという単語が出てくる。
ワニマ
ワニマ
頭がくらくらする。
本作の上演されたどらま館ショーケース2019は短い「演劇作品」を上演するイベントなのだが、スペースノットブランクの『共有するビヘイビア』については「これは何だろう」と思いながら見ていた。舞台上に3人の役者がいて、3つの役があって、それぞれに割り当てられた役を演じるという点では確かに演劇であるし、セリフを発しながら舞うように動く様はさながらコンテンポラリーダンスのように見えるし、セリフの可笑しさは言葉遊びをしているようにも聞こえた。しかし、セリフはコンテンポラリーダンスの音楽にしてはあまりに対話的だと思った。
<共有するコンセプト>の章では「そこから膝でスライディング もう一度スライディング 正座の姿勢になって起き上がる」というようなダンスの振り付けをしているようなセリフを発し実際に踊ってみせるが、<共有するコンシャスネス>では「チケット代は 2500円 で 1団体 4万円のチケットノルマ 7時 30分開演 7時だったかもしれない から 6 時 6時じゃないや 6時半か 7時に開場」というセリフに振りがつく。ほかの章でも大体そうである。なんだこれは、である。
私にはダンスの素養がないので言葉と振りがきちんと連動していたのか読み解く術はなかったのだが、黒い衣装に紺のスニーカーで揃えた3人がセリフを発しながら会場を縦横無尽に動き回る様を夢中で見てしまった。
②うさぎストライプ『バージン・ブルース』2017年5月@こまばアゴラ劇場
男手2人で娘を育ててきた男性2人とその娘彩子。彩子の結婚式の控え室での会話から話が始まるが、父親の一人博貴が倒れることにより物語は博貴の走馬灯に変わっていく。
普通じゃない特徴を持つ3人の男がいる。なぜか女性並みのおっぱいのある男博貴、博貴の幼馴染で男性器が1年に10cm成長する男修二、そして一見普通に見える男有太郎。走馬灯は3人の学生生活を映し出す。そんな中ある日突然博貴は有太郎が妊娠していることを知る。子どもは「前」から産まれてくるらしい。命と引き換えに子どもを出産した有太郎はそのまま亡くなってしまい、残された博貴と修二は子どもを彩子と名付け、2人で育てることにする。(ちなみに走馬灯内で博貴は「ウィスタリア」、修二は「ヴァーミリオン」、有太郎は「ブラック」とお互いを呼び合う。)
こんなの普通じゃない。「そんなのアリか!!」の連続に徐々に話に引き込まれていってしまう。何の悪ノリか、ついには制作・ドラマタークにクレジットされており先ほどまで客席で案内役をしていた金澤昭氏がアコースティックギターを持ち出し、いい感じの曲の弾き語りを始める。内輪ノリだがここで青年団系演劇の常連観客の大爆笑が沸き起こる。なんだこの空間は。
しかし笑いだけでは終わらせないのが大池容子のすごいところで、走馬灯内では「いいんだ、化けモンは化けモンらしく人目につかないところで孤独に生きていかなきゃいけないんだよ」と言い合うような2人が娘を育てていざ結婚式、というところで「出来損ないのおれたちが、こんなに幸せでいいのかなぁ。」「なんか、バチ当たったりしないかなぁ…。」といった言葉を言うようになっているところにこの作品の魅力を感じた。それはまるで、普通じゃなくてもそのままでも幸せになれるし、普通じゃない人が普通の幸せを手に入れることもできるみたいな、ほのかな福音のように感じられた。
③東京タンバリン『ただいま おかえり』2017年6月〜7月@下北沢小劇場B1
夫が亡くなってしまってから実家を離れ、アオサ、アカネ、キミの「3人」と別荘で暮らすようになったとある母親とその家族の話。東京に住む娘や息子たちは母に別荘を出て実家に戻ることを提案するが、母は受け入れようとせず、かたくなに、ご近所さんや「3人」と暮らす別荘での暮らしが快適であると主張する。
実際、家の中はいつも会話で溢れていて楽しいし訪ねてくるご近所さんと踊ったりする場面もとても微笑ましい。しかし夫の一周忌の前に訪ねてくる息子や娘たちとの会話から推しはかられる母親が一人で別荘に暮らす理由は決して明るいものではない。息子たちが説得に来るたびに「あなたたちに負担をかけたくないの」などと感情的になりながら追い返してしまう。
さらに後半に明らかになることなのだが、母親と別荘で楽しく会話をしていた「3人」が実は「話す家電」であることが露呈する。母親は夫を失ったショックから抜け出せておらず、他人との接触で傷つくことを恐れ別荘で「独居」していたのだ。
人間は完璧ではない。たとえ親子の間柄であってもときには傷つけるようなことを言ってしまうこともある。それを恐れて自分の殻に篭ってしまう母親の気持ちはよく分かる。人は瑕疵があるからぶつかってしまうけど、うまくいかないところが面白くもあるから難しいと思ってしまった。
そしてあまり重要な部分ではないのかもしれないが、この作品について特筆せねばならないのが杉山至氏による木製の舞台装置である。これがとても面白く、一日弄り倒しても飽きなさそうなのだ。あるものは角度を変え窓になったりドアになったり。机の下から一回り小さな机と椅子のセットが出てきてリビングがカウンター式のシステムキッチンになったり。シンプルな舞台装置ながら場面をがらっと変えるのにとても役立っていて、シーンの生成にとても役立っていたように思う。